いしょうあん
倚松庵・谷崎潤一郎 細雪の家


谷崎潤一郎は昭和11年11月から昭和18年11月まで、現在は神戸市東灘区住吉東町l丁目6−50にあるこの家に住んでいました。書斎用に離れを増築するなど、かなりこの家に愛着をもっていたようです。何度も映画化されて有名な小説「細雪」は昭和17年の春この家で起稿されています。

 


建物正面、東側より見たところ。クラッシクな日本家屋好きには堪らない構図です。植栽は殆ど当時と同じ種類と配置で植えられているらしいです。家賃85円の借家だったといふことですが、現在の貨幣価値ならいくらぐらいでしょうか?
   


裏側、西側より見たところ。焼杉板の壁面で端正な外観です。
この趣味の良い、ハンサムな家が 昭和13年の阪神大水害、20年の神戸大空襲、そしてあの大震災と大パニックに襲われなが生き残ってきました。生命力が強いといふか、信じられないくらい強運の持ち主です。

   


庭より栗石で造られた階段を下りていくと裏門があります。
小説の中ではどういう訳か裏門の話は出てきませんが、この南にあったと思われる増築された離れの書斎では貞之助と幸子の娘の悦子が猩紅熱に罹った時に隔離して治療したことになっている
   


縁側の付いた1階西側4畳半の部屋。
南側が庭に面しているけれど、庇が深くて薄暗い行灯部屋の様なところである。西側の壁に低い掃きだし窓が付いているので、日中でも風が通り、家で一番涼しい部屋である・・・ と小説の中で記されています。

   



同じ部屋の一畳分の板の間。掃きだし窓が付いている。

   



上の窓を外より見たところ。躙口(にじりぐち)に見えるが高さが不足。昔の良い家ではこの様な意匠が流行っていたんでしょうか。




   



1階北側、開け放った勝手口扉が見える。左横の小屋根はポンプ付きの井戸です。普段は水道を使っていたが、阪神大水害で水道、電気、ガスのインフラが止まった時には手で汲み上げ活躍した。

   


1階東側応接間の窓より見る玄関門。
   


庭よりみる建物南側外観。
元の場所はこの場所よりもっと海に近く、2階の窓より白砂青松の住吉浜が見え絶好のロケーションであったでしょう。平成2年7月にそこより150m北にあるこの場所に移築されました。
   


応接間の窓より見る庭の様子。
谷崎が借りるまでこの家に住んでいた大家がベルギー領事館に勤めていた方で、建物の外観は純和風ですが内部は来客用の為か当時にしては部屋の天井は高く、洋風の応接間になっています。
   


縁側の付いた2階西側4畳半の部屋。
小説の中で、四女妙子(こいさん)が使用した。

三女雪子の結納が終わり、妙子は三好と夫婦暮らし始める結末は唐突な終わり方で、読者とすればもっともっと続きを書いてくれ〜〜 と思うでしょうね。これも谷崎の心憎い小説テクニックの一つなんでしょうか。
 


2階東側8畳の部屋。谷崎と松子夫人の寝室でした。
手摺り囲いの張り出しが付いた窓際、料理屋の一室みたいで粋な素敵さがある部屋です。エアコンも無い昔のことだから夏の夜はここに腰掛けて涼をとったんでしょうか。
   


現在の六甲ライナー魚崎駅の場所にあった元の倚松庵は住吉川西岸の小高い土手沿いに建ち、その当時はマンションなどの周囲をはばかる無粋な建物が無かった為、この窓辺より見晴らしよく海の照り返しが見えたことでしょう。私の推測ですが、谷崎は実は大の海好きで歩いて10分もかからない海岸によく出かけていたんではないでしょうか。
   


月2回土曜日に倚松庵で色々とレクチャーしてくれる担当の女性講師。芸術家だが実利面にも聡い谷崎の意外な面を今回知りました。外部には厳しいが身内には面倒見の良い旦那気質の人だったみたいですね。
   


倚松庵前の住吉川… 流域がきれいに整備され市民のウォーキングや散策のコースになっている。ここから2km程上流の白鶴美術館の辺りでは今の時期、子供達が家族連れで水遊びをし、魚を手掴みで捕っています。
   


倚松庵より住吉川沿いに徒歩で5,6分下ると河口近くに菊正宗記念館が... この場所に移築されたのは昭和35年だから時代のずれがあって、谷崎とは出会っていません。ここ南魚崎は灘五郷のひとつで数々の酒蔵の集まっているところです。